| 1.中国伝統の漢方でガンを治したい! |
王振國は1954年、通化市の郊外にある山間の公益と言う村に、6人兄妹の次男として生まれた。農業を営む彼の家は貧しく、おまけに現金収入がほとんどなかったので、生活を維持するのがやっとという状態。12羽のニワトリが生む卵が唯一の現金収入の道だった。当時は東北地方全体が貧しかった上、大規模な冷害がたびたび発生したので、彼らは木の皮を食べて飢えをしのいだこともあったと言う。
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「私が7歳になって小学校に入ろうかと言うとき、母がこう言ったんです。『実はおまえを学校に行かせるだけのお金が家にはないんだよ...』。そこで、自分で採った薬草を売り、学校に行く金を作ろうと考えたのです。私は体が大きかったし、大人に混じって薬草を採りに行ったりもしていて、5、6種類の薬草なら見分けられるようになっていました。長白山の麓に生まれたからこそ得られた幸運だと思いましたよ」
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やがて彼は、大人も顔負けするほどの薬草採りになる。中学に入るころには100種類以上の薬草を見分けられるようになり、少しでも高値がつく薬草を採り、それを半日かけて通化まで売りに行くようになっていた。それで家計を助け、彼自身が中学に行く費用も稼ぎ出したのだ。
1969年、中学を卒業した振國は人民政府の職員となり、村の養豚場で働くようになった。しかし、そうなってからも、彼は休みになると薬草を採りに山へ行っていた。ただ、今度は売るためではなく、すでに興味をもっていた薬草の勉強に使うためだった。 |
| 「初めて手にした給料で、『東北中薬草』と言う専門書を買ったんですよ。その本には、この地方で採れる薬草が図解されていて、それをどのように配合するとどんな病気に効果があるかが書かれていたんです。私は無理とはわかっていても、いつかは医者になりたいと思っていました。だから、本を頼りに薬草を集め、調合を繰り返していました」 |
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そんな振國の独学の成果が問われるときがある日やって来た。村に気管支を患い苦しんでいる老人がいたので、彼は自分が調合した薬を頼んで飲んでもらうことにしたのだ。すると、その効果は2、3日して現れ、1ヶ月もすると、老人は畑仕事に出られるほどになった。
さらに同じころ、村で下痢が流行ったが、彼が調合し、煎じた薬でほとんどの症状が緩和した。村人たちは喜び、彼の薬草に関する知識を認めるようになった。それによって、仕事のほうも養豚担当から獣医へと昇格した振國は、さらに鍼灸の勉強を始めるようになった。彼が16歳のときのことだ。
公益村に薬草に詳しい、鍼灸もできる少年がいるらしい.....。 そんなウワサが村人を通じて広がり、それは人民公社衛生学院の院長の耳にまで届いて、振國を見習い扱いで呼び寄せてくれた。しかも、その直後に人民政府が地方都市に医師を養成する学校を作る方針を出し、通化にも吉林省通化市衛生学校が設立されることになった。彼は、卒業後1年間は出身地で医師として働くことを条件に、ここに入学を許された。 |
「私は幸運でした。ここで中医学(漢方医学)と西洋医学を体系的に学ぶことができたのです。そして、卒業後に通化市の六道溝衛生学院と言うところで実習生として働いていたときに、その後私の進むべき道を決定づけるような出来事が起きたのです。
それはある日、ガン病棟で起きました。病室から飛び出してきた12歳くらいの娘が私の足元にひざまずき、涙をいっぱいためながらこう懇願したのです。『先生、私のお母さんを助けて下さい!』
見れば、病室の母親らしき女性は末期の肝臓ガン患者で、お腹が妊婦のように膨れ上がっていました。一緒にいた先生のお話では、余命はあと十数日とのことでした。痛みに苦しむ母の姿に耐えかねた娘は、まだ医者ともいえないような私に助けを求めたのです。
1週間後に母親は亡くなりました。私は、医者なのに患者を助けてあげることもできないんだと、非常に悔しい思いをしました。そして、中国にはこんなに薬草がいっぱいあるのに、ガンに効く薬草はひとつもないのか、と落胆もしました。
このとき私は、生涯の中で、ガンに効く漢方薬を研究しようと心に誓ったのです。当時の私は、西洋医学、ことガンの治療に関してごく浅い知識しかありませんでしたが、これほど進んだ西洋医学でもガンは治せないとゆう現実に打ちのめされたのです。だからこそ、中医学にガン克服の道があるのではないかと考えたのです。ガンと言う病の恐ろしさ、難しさを知らなかったための、無謀な決意といえなくもありませんが...」 |

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重大な決意を胸に秘めた振國は、その後、吉林省の隣、遼寧省海城市の人民解放軍の衛生員となった。それは、中国に古くから伝わる、漢方によるガン治療のための薬草や処方、治療法等を広く集めるのに、格好の職場だったからだ。軍隊には立派な病院や専門書が整った図書館があり、また中国各地から集まってくる兵士たちから地方ごとのガン治療のための薬草や処方、民間療法等を聞きとることができたのだ。
「衛生員をしていた4年間で、薬草や処方だけで800以上が集まりました。私はこれらを整理し分類していけば、ガン治療薬を作れるようになる日も近いと小躍りしていたものです。
しかし、それはあまりにも甘い考えでした。薬草の多くはすでに何らかの形で紹介されたものでしたし、処方も抗ガン効果があるとされる生薬にいくつかの生薬を組み合わせたもので、参考にできるくらいのものでしかなかったのです」
だが、その後、通化市の公務員となり、製薬工場の工場長、市政府の秘書と仕事は変わっても、振國の薬草と処方收集は途絶えることがなかった。そして2、3年後には、中国各地を訪ね歩いて集めた民間療法や秘伝といわれるような処方は1200種にも達していた。彼は、今度はその処方に使われる生薬を分類し、それぞれの長所や欠点を調べ、整理することを始めた。そうすることによって、より効果的な配合による処方を見つけ、ガン治療のための新しい漢方薬を生み出そうと考えたのだ。
そのために彼が基本にしたのは、身体の三大構成要素である『気・血・津液(水分)』の流れをよくすることだった。漢方では、これらの流れが滞るとさまざまな症状が生じ、弱まって病気にかかり、治らなくなってしまうとされる。だから、それを改善する生薬を選び出すことが、ガン治療のために大切だと考えたのだ。
「私はまず、抗ガン作用をもつ生薬を始めとした60種類の生薬を絞り込みました。そして、マウスを使った実験等で、さらに半分に選別し、いよいよ処方作りにとりかかったのです」
振國は公務員を休職し、研究に没頭するために自宅に研究所を開いた。その名は、現在と同じ『通化長白山薬物研究所』。しかし、それは振國の家の一角に設けられたごく小さなスペースで、実験用マウスの飼育箱がその大半を占めていた。生薬を加工するための道具は借り物だったし、冷蔵庫は家の外に地中深く掘った穴を代用したものだった。
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